うちの近くの大学に欅並木がある。
夜、雨が上がったので、ひとり散歩をした。
街燈に照らされた葉は、ぬれてしっとりしている。
光る木肌は、不思議な表情をしている。
光る木肌は、不思議な表情をしている。
こちらの皮膚にも何かがしんみり滲みてくる感じがした。
この並木の界隈には、住む場所はいろいろ変わったものの、
かれこれ16年くらい暮らしている。
通るたびに、欅の高さに触れて心が深く呼吸をする。
立派な並木を見るとき、
その大きさに打たれるとともに、
これを維持しつづけている大学に感謝の気持ちでいっぱいになる。
個人でこれだけの並木を保つのは難しい。
大学や市、地域の人々による管理があってこそ、今日まで来たのだと思う。
欅に触れて、先祖伝来の田舎の屋敷を思い出す。
屋敷には大きな欅の木が数本ある。
祖母は昔からあるその木々を日々眺めながら、
100歳近くまで生きた。
伐った欅は床板にも使った。
欅とともにある人生だった。
祖母の亡くなった後、
いくつかの理由から、親が空師にお願いして欅の木の高さを詰めた。
子どもの頃から馴染んでいた庭の木陰は薄れていった。
とても残念なことではある。
しかし、郷愁だけでは何ともならない個人の限界は、厳然としてある。
ぼくは今、東京の小さな家に住み、庭に植える木を思案している。
田舎の欅は、ときに胸がつかえるほど懐かしく、憧れる気持ちも強いが、
猫の額のような地面にこれほど大きくなる木はとても植えられない。
欅並木を歩きながら考える。
あるいは、この欅が、ぼくにとって大切な欅になるのかもしれない。
この並木を歩き、これらの木々に関わる、
それが、ぼくなりの、欅とともにある生き方になるのではないか。
今はそんな気がしている。