もともと、自分のテーマである「生者と死者の関係」を考えるためである。
(めずらしく、むやみやたらな乱読ではなかったのだった。)
で、読み終えてやはりいろいろ考えることとなった。
かんたんにいえば、原爆で父を失った女性が、自分を「生き残ってしまった」ととらえて、恋することすら禁じようとする。そこに亡くなった父の幽霊が出てきて、娘がしあわせに生きるように願いながら、娘と対話する、という話。
かんたんにいえば、原爆で父を失った女性が、自分を「生き残ってしまった」ととらえて、恋することすら禁じようとする。そこに亡くなった父の幽霊が出てきて、娘がしあわせに生きるように願いながら、娘と対話する、という話。
作者の井上ひさしは、「劇場の機知―あとがきにかえて」のなかで、この女性が恋におちて「しあわせになってはいけない」と考える自分と、恋を成就させてしあわせになりたいと思う自分とに分裂してしまう、劇として成立させるために、そのうち後者を父の幽霊に演じてもらうことにした、という趣旨のことを書いている。
死んだ父が、生きる娘の幸せを望む、〈死者が生者のしあわせを願う〉という枠組みでとらえてしまうならば、この仕掛けが含んでいる複雑な要素の多くをとりこぼしてしまうように思う。
父と娘には、さっきの話のように、娘の葛藤する二つの感情が重ねられたうえに、さらに死者一般と生者一般の関係が重ねられる。そして、死者一般は、あくまで〈一般〉であるから、一人格のような感情を必ずしももちえない。
いってみれば、すべての死者が一様にこの女性の幸せを願うとはかぎらない、ということ。
当然、その「幸せ」に無関心な死者もあるだろうし、ばあいによっては憎悪に似た感情すらもつ者もある。
当然、その「幸せ」に無関心な死者もあるだろうし、ばあいによっては憎悪に似た感情すらもつ者もある。
実際、作中では、この女性の幼なじみの女性(この人のほうは原爆で死んでしまう)の母親が登場し、「うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」と言う。「死者との(しあわせな)共生」ということばではくくれないような、生者と死者の関係がここに顕現している。
劇としては、父と娘の親子の愛情によって、娘は恋する方向へと向かって幕を閉じる。
しかし、生者と死者の関係という問題については、明確な答は出ていない。
一読者としては、家族の愛情と背中あわせの一種のエゴイズムをはじめとして、
読み終わったあとにいろいろ考えつづけてしまう。
ただ、それはこの作品が問題をややこしいままに投げ出したということを意味するのではない。ある仕掛けを提示することによって、生者と死者の関係を考えるむずかしさが、
何らか具体的なかたちで日なたに持ち出されたのだ、と考えるべきだろう。
というわけで、〈考え中〉の中間報告でした。
何らか具体的なかたちで日なたに持ち出されたのだ、と考えるべきだろう。
というわけで、〈考え中〉の中間報告でした。